鹿児島市に転勤できて土地柄が気にいり30年もの長い間住んでいます。
日本の南の果ての普通の街並みではありますが、普通でないものは市街地の真ん前に聳える桜島。危険な活火山がドーンと噴煙をあげても誰も気にに留めないのです。
せいぜい風向きに より洗濯物がとか、飛んでくる灰の心配をするくらいです。
市内に多くある温泉も鹿児島暮らしの楽しみの一つですね。ガラス窓越しに桜島を眺めながらの朝風呂も火山の恵みそのものであります。
鹿児島のどこの墓地でも生花が飾られ花の消費量は全国トップです。
鹿児島の方々は祖先を敬う気風がとても強いように思います。
さて、これだけ鹿児島暮らしが長いと鹿児島の優れて自慢できるものはなんだろうと自問することがあります。
律儀な県民性、難解な鹿児島弁、焼酎片手に「よかばんなー」と呟く晩酌、色々ありますね。
そのなかでもやはり着目すべきは、日本が世界に向けて国として立ち上がろうとしている時に活躍した鹿児島の先達たちではないかなーと思います。
市内にも市役所や県による先人の偉業を忘れないために図書館の郷土史コーナーや街のあちこちに偉人の銅像やモニュメントが多くあります。
並みいる鹿児島の偉人のなかでやはり島津斉彬公と西郷隆盛翁は並外れて尊敬と人気度の高い偉人といえます。
島津斉彬公は神格化されて照国神社に祭られています。一方の西郷隆盛翁は色々な商品のデザインに登場しますが「西郷せんべい」が人気で他県へのお土産にも良く利用されます。
鹿児島の偉人、島津斉彬公と西郷隆盛翁について紹介しますね。
島津斉彬公 新しい時代の礎を築いた英明な殿様
島津斉彬公は1809年江戸で生まれました。曾祖父重豪は斉彬公の父27代斉興の後見人として薩摩藩の実権を持っていました。
曾祖父重豪は、とても進歩的な方で西洋の学問にも熱心でした。重豪はオランダの医師シーボルトとも付き合いがあり江戸の薩摩藩屋敷にシーボルトに植物学、動物学、医学などの知識を吸収していました。
斉彬公も17歳の頃には江戸屋敷でのシーボルトの講義を通じてヨーロッパの学問や世界の情勢を知ることができていました。
父斉興公は斉彬公になかなか家督を譲らず色々な騒動の後に28代薩摩藩主になったのは41歳の時でありました。
斉彬公は藩主になる前に西洋の学問を学者に講義をさせたり科学の実験などもおこなったりされていました。
特にヨーロッパ列強の植民地政策の情報なども収集されていたと思われます。
薩摩藩藩主になられた斉彬公はすぐさま藩政改革を行い軍事・教育・殖産興業などを強力に推進されました。
斉彬公はまず造船所を作り西洋式の帆船軍艦や日本で初めての蒸気船軍艦を建造しました。
徳川幕府に大型軍艦建造を認めさせ日章旗を船に掲げることの許可も得ました。現在の日本の国旗の始まりです。
更に薩摩藩の別荘のあった磯地区に集成館を建て反射炉、溶鉱炉で 大砲や銃を製造しました。
写真提供:「© K.P.V.B」
現在の薩摩切子のもとになったガラス製造所や紡績工場など多くの近代工業を誕生させています。
教育の遅れや科学技術の発達の遅延が他国の侵略を招くという事を熟知していた先覚者ならではのスピードで藩の近代化を進めていきました。
特に斉彬公が重点を置いていたのが青少年の教育でした。
人材の登用にも能力主義を貫かれたのが斉彬公流です。身分制度にうるさい薩摩において下級武士の西郷隆盛を見出し抜擢したのは有名な話です。
斉彬公は49 歳の時に天保山練兵場で発病し死去したました。死の原因はコレラという説もありますが原因はいまだ不明です。
島津斉彬公は鹿児島の方々にとっては雲の上の存在であるように感じます。
照国神社に祭られている斉彬公のもとには市民の季節の折々の参拝が見られます。
照国神社の後ろにそびえる丘陵地帯が城山と呼ばれ毎朝市民が城山登山と称して散歩を楽しむエリアです。
藩政時代には薩摩藩の鶴丸城も城山を背に築城されていますし斉彬公没後に建立された照国神社も城山の麓にあります。
特に薩摩藩は鶴丸城に万が一のことがあった場合に後詰めの城として城山が整備されていたそうです。
城山展望台からは桜島を望むベストスポットで散歩をする地元の方や観光客で賑わっています。
こちらの城山展望台にも島津斉彬公を尊敬する市民が自費で建てたと思われる記念碑がありますので紹介します。
碑に刻まれた碑文は以下のようになります。
宝の山
高からず 低からず 遠からず 近からず
40万鹿児島市民の排気ガスを緑の600余種の自生の森林がさわやかに清めてくれる。
身も心も私は魅せられて雨の日も雪の朝も40年を登り続けてきた。
健康のみなもとわが城山。
感謝の心を島津斉彬公の創られた日の丸の旗に託して高く掲げん。
永久の国のいや栄とともに!1)
昭和49年秋 一老医(77歳)
.
このように現代でも島津斉彬公は鹿児島の人々の心の中に生きているように思われます。
西郷隆盛 敬天愛人 鹿児島で人気。情の人。
西郷隆盛の鹿児島での人気は明治の偉人の中では圧倒的です。
写真提供:© K.P.V.B」
1828年に鍛冶屋町で下級武士の長男として生まれました。
鍛冶屋町は鹿児島市を貫いて錦江湾に流れていく河川の甲突川沿いにあります。。町の区割りは藩政時代と大きく変わらないといわれています。
西郷家のあった土地は今も保存されています。藩政時代は上級侍の住む地区から離れた周辺の位置にありました。
鍛冶屋町の隣はもうすぐ荒田町です。荒田町は町名からもわかるように昔は田んぼの多い地区でした。
このことから鍛冶屋町は街のはずれの田園地帯いう風情であったと想像できます。
当時の代表的な下級武士の住宅が再現されて公開されています。床下の通風を良くする湿度の多い鹿児島ならではの建築様式です。
座敷を高くするのは、敵が簡単に侵入できなくする目的もあります。更に座敷は天井を高くしてあり槍を存分に操作することができるようにしてあります。
屋根は下級武士の場合は茅葺です。多くの家では畑があり野菜は自給していました。
幼い西郷少年も貧しい家計を助けるため畑仕事にも精を出し勉学にも励んでいたに違いありません。
西郷隆盛の鹿児島での人気は明治の偉人の中では圧倒的です。
人気の原因一つは明治政府の陸軍大将の職をやめて鹿児島に戻り私学校を設立する傍ら趣味の狩りで県内あちこちを巡っておられました。
その際に人々との交流が多く西郷の人となりが現代まで数多く伝わっているといることも影響していると考えています。
西郷隆盛は薩摩藩の下級武士に生まれ普通なら殿様に会うこともかなわない身分でしたが聡明な斉彬公に見いだされ藩外の連絡役など重要な仕事をまかされ将来を見据えた斉彬公に育てられていきました。
身分ではなく能力を重視した斉彬公は当時の武家社会では並み外れて先進的な方だといえるでしょう。
ところが斉彬公が急死なさってしまいます。鹿児島出身の歴史小説家西園寺潮五郎は斉彬公の突然の死は陰謀説を唱えて西郷もそのように信じていたと小説には書いています。
ただ、事実は歴史の闇のなかにあります。
西郷は斉彬公の突然の死に深く悲しみ殉死まで考えたそうですが説得され取りやめたそうです。
次の殿様久光公と西郷のうまが合わず殿様に対してズバズバものをいい、殿の命令を無視したりしての流罪になっています。
西郷が殿様に直言できた胆力は若い頃からの座禅の修行の賜物だと思います。
久光公の怒りに触れて命ぜられた流罪の地は沖永良部島の海岸近くに粗末な牢での拘束でした。劣悪な環境でやせ衰えていく西郷を助けたのは地元の役人でした。
屋敷のなかに座敷牢をこしらえて西郷の体力の回復をはかったのです。座敷牢での地元の青少年の教育もされたそうです。
衰弱して人生の終わりを覚悟した西郷の終生のテーマ―「敬天愛人」が生まれたのが流刑地の沖永良部島での経験にあると言われています。
西郷が必要との声に流罪をとかれ鹿児島に戻る際にも別の島に流罪になった仲間の侍を許可なく連れ帰るようなこともされています。
明治政府の基礎を整えていた西郷は意見の相違で職を辞し鹿児島に戻ってきます。その際に鹿児島出身の軍人や政府職員が仕事をやめ帰郷してきました。その数が数百名になったそうです。
その人達が主体に造られたのが私学校です。軍事訓練と開墾の仕事に従事しました。
写真提供:© K.P.V.B」
愛犬のツンを連れての狩りに興じていたのもこの頃です。
猟を終えた西郷は温泉につかるの楽しみにしていました。いつも垢の集まる湯が流れ出る場所に巨体を沈めていたそうです。
また、おひとりで吉野の開墾地に向かう際に坂道で荷車を引いてる青年に「そこの爺さん荷車を押せ」といわれ、はいはいと荷車を押したエピソードも伝わっています。
やがて、私学校の勢力に危惧を抱いた政府が密偵を鹿児島に派遣します。それに憤激した青年たちが西郷が留守の間に政府の施設を襲撃してしまいます。
陸軍火薬庫跡 写真提供:© K.P.V.B」
西郷は青年たちを政府に突き出すことはせず今後の自分の人生は青年たちにゆだねることを選択します。情の人、西郷隆盛はこうして子供のころから愛した故郷城山で人生を終えることになります。
西郷が情の人で個人的な損得を顧みず行動し悲劇的な最期を迎えた歴史的事実に鹿児島県民が共感し今でも人気のある原因かもしれません。
政府軍と九州各地で激烈な戦闘を繰り広げた西郷軍は薩摩示現流で小さい頃から鍛えられてきた勇猛な薩摩隼人の集団です。
農民が兵士として多く採用されている政府軍にたいして当初有利な立場にありました。
白兵戦に優れた西郷軍に対し政府軍も旧会津藩を中心とした抜刀隊を組織して対応しました。
そのような状況のなかで熊本植木の田原坂で両軍激突し装備人数で劣る西郷軍は鹿児島への撤退を始めます。
熊本植木町に住んでいる友人の話によると地元の田原坂での激戦は田原坂公園として資料やモニュメントなど当時を偲べるようになっているそうです。
敗走を重ねる西郷軍は宮崎を迂回して鹿児島に戻ってきます。西郷軍が最後に戦うと決めたのが鶴丸城の山城ともいうべき城山でした。
城山は鹿児島市の中心部からすぐの所にある標高107メートルの丘陵地帯です。
クス、シイ、サンゴジュなど 600種もの樹木が自生しています・
鹿児島の城山には西郷軍が最後の陣地になった西郷洞窟が現在も当時のまま保存されています。
政府軍の最後の総攻撃の夜には砲弾の音がやみ静寂のなかに政府軍の陣地の方から軍楽隊が演奏する葬送の曲が流れたきたそうです。
明治という新しい時代の立役者、大西郷に対する政府軍の畏敬の念を表したものでしょう。
翌日の政府軍の総攻撃で秋の季節のなか西郷隆盛の命は天に召されました。
写真提供:© K.P.V.B」
西郷隆盛終焉の地は西郷洞窟から少し降りたところの岩崎谷という場所です。
写真提供:© K.P.V.B」
上の画像は鹿児島の桜島を見下ろす高台にある南洲神社の境内にある南洲墓地です。
西南戦争で亡くなられた薩摩軍の兵士2023名の墓が中央前面にある西郷隆盛翁の墓を囲むように並んでいます。
お墓には鹿児島県民や県外からの墓参りの方々が多く訪れます。
お墓の前のには江戸城無血開城で西郷隆盛と談判した勝海舟の歌碑が立っています。
「ぬれぎぬを 干そうともせず子供らがなすがままに果てしきみかな」
大きく打てば大きく響き小さく打てば小さく響くと西郷の人となりを評した勝海舟です。
青年士族の明治政府に対しての暴動に対して青年たちを見殺しにすることなく自分の命と引き換えに彼らを守ろうとした情の人西郷隆盛を称えなおかつ残念な思いを詠んだ歌だとおもいます。
鹿児島県民が西郷隆盛を尊敬し愛 するのは情けのある政治家で敬天愛人を身をもって実行したことにあると思います。
鹿児島の方に敬愛される西郷隆盛の愛称は、まず「せごどん」。「西郷殿」という鹿児島の方が好きな呼び方ですね。
他には「うどさぁ」という愛称もあります。鹿児島弁で大きい人という意味になります。
鹿児島では西郷さんを先祖に持つ方がたまにテレビに出演しますが太い眉などやはり子孫だなと納得したりしています。
上の画像は、京都で建立予定だった西郷さんの銅像が諸事情で鹿児島に移設されました。鹿児島空港近くの西郷公園に建てられています。
まとめ
鹿児島の方は律儀な方がお多いです。良く分かるのは商取引です。県外からくる営業マンは取引を始めるの相当苦労します。
でも一度商品の良さと営業マンの熱意が認められると取引をしてもらえます。
一旦納品された商品は長く変わりません。同業者が同じような商品を価格を安くして提供するといっても断られます。
断る口上は「あの営業マンは苦労してこの商品を育ててきた。だから簡単に変えるわけにはいかない。」です。
律儀、熱情的、努力といったユニークな県民性は風土そしてそこに生まれた先達の思想などが混然一体となって造られているのではと思ってしまいます。
島津斉彬公や西郷隆盛翁の生き方や思想が次の世代にも伝えていく必要があるように思います。